巨大筋腫開腹全摘手術と腸閉塞
巨大筋腫のままの開腹全摘術は患者のためのものか?
第2章 巨大子宮筋腫開腹全摘手術 入院編1
妊娠・子宮温存希望のある患者に、宮本医師はアゴニスト療法の説明もせずに巨大なまま指導医をつけて開腹全摘手術を執刀、 患者の負担は大きく、手術当日、夜になっても体の震えは治まらず、お腹に大きな傷が残り、 術後は腸閉塞を起こし、鼻から管を通され、約一週間の絶食、点滴の針もさされたままでした。 術前の流涙、術後の嘔気の様子など、精神的・身体への侵襲・負担の様子です。
・2013年12月19日入院
14:30入院(手術前日)
看護師に部屋替えを依頼する
泣蜂 :「病棟部屋を替えてほしい、赤ちゃんの泣き声とか、前の入院のつらいのを思い出す。
外来が産科と婦人科にわかれているから、病棟もわかれているのかと思っていた。」
看護師 :「そんな病院は聞いたことが無い。今すぐには無理だが、明日になれば6階の混合病棟があくので、手術後に部屋を替わる」
未婚未産婦の女性にとって、それも子宮全摘手術を目の前にして、
赤ちゃんの泣き声がどれほどつらいものか。
それは一度目(20年前)の子宮筋腫核出術の時もそうでした。
その当時の私と同じ年齢のような女性が、かわいい赤ちゃんを抱っこして、幸せそうに、にこにこ笑っていました。
その横で私はワーワー泣いていたのです。
天国と地獄が隣り合わせでした。
*後日知ったことですが、病院によってはこういう女性の気持ちに配慮して、産科と婦人科の病棟を分けている病院もありました。
夕方 林先生によりお腹の上からエコーをする
林先生:「明日手術ですからね。」
夜 部屋
宮本医師:「明日手術頑張って下さい。」
泣蜂 :「頑張るの先生です。私頑張りません。明日、母が来るけど高齢なので、手術の後の難しい話は結構です。
今日エコーするなんて聞いていませんでしたけど。」
宮本医師:「林がちょっと見てみたいと言っていたから、お腹の上からだから構わないでしょ。」
泣蜂 :「手術後に取ったもの見せてくれるんですよね。
写真撮っておきたいのでカメラ持って入っていいですか、母はカメラ写せないので」
宮本医師:「カメラは持って入れない、こっちで写真撮るのでそれを渡す。」
泣蜂 :「私眠っているところを起こされると、何言うかわからないので起こさないで下さいね。」
・12月20日 手術当日
手術前に涙。精神的ショックで、術後は体の震えが止まりませんでした。
11:00 看護師と母と共に、病室を出て、歩いて手術室のある病棟へ向かう。
死刑台へ上るような気持だった。
母と別れてから、手術室入室前に涙が出てきて、スタッフからティッシュペーパーみたいなものをもらい何度も鼻をかみ、しきりに泣く。
やっぱり手術嫌だ、怖いと思いながらも、自分で決めたことだからと意を決す。
スタッフからも「先生が待っている。」と急かされる。
手術台に横たわってからはもう一瞬で眠りに入った。
手術直後、宮本医師から声をかけられ、目を覚ます。
摘出された自分の子宮をこれが最後だからと目に焼き付けた。
大きな肉の塊がこんもりという印象だった。
その直後再び目を閉じた。
病室に戻ってからも、ほとんど意識がなかったように思う。
(15:30に希望通り、病室を移動したが、私の記憶には一切残っていません。)
看護師が酸素マスクを装着しようとしていたが、嫌がる私がすぐに無意識のうちに自分で外してしまい、 宮本医師が「無理にしなくていい」と言ったのが聞こえた。
看護師から声をかけられても、何もかもが無意識のうちだった。
同じ姿勢でいることが苦痛であったが、身体を動かすのもさらに苦痛だった。
目が覚めたのは夜であった。
苦しかった。
体がガタガタ震えて止まらなかった。
自分の身体が自分でない。
思い通りに動くことは出来なかった。
脚部に付けられた、血行促進のマッサージ器でさえ、苦痛に思い、
足で外そうとして、もがいた。
腹部の痛みがあるところへ吐き気・咳・痰が襲ってくる。
元々鼻詰まりの為、口で息をするので、口の中が乾く。つらかった。
長い夜だった。


カルテ 手術室前で緊張と書いています。 次頁に(手術室前で)流涙「こわい」・・・


カルテ 手術記事。 次頁(手術後)夕方には嘔気

カルテ 夜になっても、嘔気おさまらず、入眠できず。
・12月21日
術後、腸閉塞を併発、食事制限へ
夜と朝の区別はなかった。
眠っているのも起きているのも一緒だった。
どちらも苦痛でしかなかった。
朝、看護師からベッド上で歯磨きの介助をしようとするが、とてもそれどころではなく、「今はとても無理。」と断った。
昼、食事(かゆ)をだされるも、少し口にしただけで、食べられる状態ではなかった。
夜も同じであった。
今の苦しい状態、気持ちをごまかすため、テレビをつけた。
ちょうどオリンピック前のフィギュアスケートの大会をやっていた。
寒気を感じて、布団をかぶったまま、寝ながら見た。
夜中 嘔吐・吐き気がさらにひどくなり、何度もえづく。
夜中1回目のナースコール
看護師が来てくれたが、吐き気がある事を伝えたが、何も言わず、何もせず、観察していたのか、その沈黙を苦痛に感じて、
泣蜂 :「すみません、もう大丈夫です」
その後も吐き気で何回もえづき、えづく度にどんどんひどくなっていった。
さぞかし、同室の人は迷惑な事だっただろうと後から思った。
もちろん当時はそんな事を思う余裕はなかった。


カルテ 創部痛。次頁 むかつきなどで頻回にナースコール、アタラックス使用後1時間程入眠、ほとんど眠れず。


カルテ 閉眼、声かけにもわずかに頷くのみ、倦怠感強い、顔面浮腫著明。夜間眠れず。
次頁 創痛増強、倦怠感強い。昼~3分粥、1,2口のみ。疲労強く、反応乏しい。

カルテ 嘔気軽度、夜食事1/0割しか食べられず、ぐったり。
・12月22日
吐き気はずっと続き、看護師から腹部がパンパンに膨らんでいると聞かされた。
自分で感じないかと訊かれたが、あまりにも苦痛すぎて、そこまで意識が無かった。
10:30 レントゲン。車いすで移動する。
11:00 胃チューブ挿入、1回目、私が「嫌だ」と言って、抵抗した為、挿入に失敗。
過去にも耳鼻科でファイバーを拒否したぐらいである。
2回目ナースに腕を押さえつけられ、無理矢理挿入される。
慣れないチューブに違和感を覚える。
咳や痰が出る度にとまどう。痰を出すのもどうすればいいのか。
今日の17時までの約束。食事なし。この日より絶飲食。
心細くなり、母を呼ぶ。
15:00 看護師に歩行を奨められ、病棟のナースステーションを2周する。
点滴スタンドを持ちながらの歩行であった。
17:00 抜いてもらえるはずの管は抜いてもらえず、気落ちする。
明日もう1日との事。夜には吐き気も治まってきた。
しかし、寒気を感じたので、看護師に訴えて、毛布を一枚もらったが、
それでも寒気は治まらず、さらに一枚、結局電気毛布を貸してもらった。


カルテ 嘔気持続、腹部緊満増強。「吐き気がひどくて、お腹苦しい・・」。
次頁に創部痛、嘔気、腹部緊満持続。「吐き気がしんどい、どうにかして、早く治して」。

カルテ 腹部膨満、表情険しく、顔色悪い。
・12月23日
朝、ガスが出るが、相変わらず膨満感で苦しい。
しかし昨日よりは楽になり、病棟内を何回か行ったり来たりする。
点滴はつけたままである。
13:30 尿管はずす。
16:30 自力でトイレに行く。
結局、胃チューブは外してもらえず。気落ちする。
・12月24日
10:30 レントゲン撮影の為、車いすで移動する。
12:10 相談室にて宮本医師より説明
宮本医師:「3,3㎏バスケットボールぐらい。前の膀胱と後ろの腸との癒着がひどかった、子宮は少し残っている。
食べることによって腸の動く人と逆に動かなくなることがある。
胃にまだガスが残っているので、木曜日まで様子を見る。
水分少しだけ、水、茶、ジュースかまわない。」
泣蜂 :「手術後に見た摘出物覚えている。」
宮本医師:「すごいですね。」
説明を続けようとしていたが、私の方が絶食や体調の事もあって、頭が回らなかったので、後日にして欲しいと頼みました。
部屋へ帰る時、部屋の手前で、後ろを振り向くと宮本医師が後ろにくっついて来ていたので、
泣蜂 :「何ついて来てるんですか、先生忙しいでしょ、もういいですよ。」
と言ったら、宮本医師が驚いたのか、体がビクビクとなった。
結局部屋まで宮本医師がついて来て、私はしんどかったので早々にベッドに入って横になり、宮本医師も何も言わないで帰る。
15:00 洗髪
16:30 点滴針差換え
夜 看護師に点滴の内容、胃チューブからの排出されているものなどを教えてもらう。
看護師 :「点滴は500mlが一日に4回と抗生剤100が1日に3回。
それと胃液、胆汁も出る、色は緑で良いとの事。
おしっこは頻繁に行く方が回復している」との事。

*カルテ 宮本医師の手術の説明
・12月25日
部長回診前
宮本医師:「泣蜂さん今から回診あるけど、どうってことないからね、質問されたら、それに答えるだけでいいから。」
その直後部長回診があり、もっと早く言って欲しいと思った。
何故なら大勢の目にさらされるのは嫌で、逃げだしたかったからだ。
部長回診後
宮本医師:「どうってことなかったでしょう、退院は管外してからプラス5日間。」
・12月26日
この頃テレビで食べ物のCMを見たり、病棟で朝のパンの焼ける匂いがつらくなる。
5:30 早くに目が覚めてしまい、病棟の外に出て、人気のない外来をうろうろ歩く。
トイレに行きたくなり、手術後初めてのお通じ。
その後病棟へ帰ろうとしたら、病棟用のICカードを持ってくるのを忘れたことに気づき、慌てる。
警備員さんがいたので、一緒に帰ってもらった。
10:30 レントゲン撮影
今日はチューブを外す約束になっていたので、医師が来るのを心待ちにしていた。
林先生が来られて、歓喜の声を上げた。
13:00 林医師により胃チューブ外す、水分取ってもいいとの指示、夜より食事開始
15:00 シャワー
18:30 夕食開始 重湯の為、がっかり。
夜
夕食に出た紙パックのジュースを飲もうとしているところへ宮本医師が入ってきて
宮本医師:「あっ、水分はあんまり取らないで。」
泣蜂:「えー、人が飲もうとしている時にそんな事言う。」
宮本医師:「水分は口を湿らす程度。」
・12月27日 【退院日が二転三転、医師によってくい違いました】
朝食:重湯とみそ汁の汁のみ 昼食:三分粥
午前中 部屋にて
宮本医師:「正直言うと退院は、年末年始は厳しい、腸の事を考えると、 ここで療養した方が良い、退院は正月三が日で。」
泣蜂 :「私も年末年始に退院して家に帰っても、食べたいのも食べら れないし、皆がごちそう食べているのを見るのもつらいのでその方が良い。」
宮本医師の退室数分後に林医師が来られました。
林医師 :「退院は年末で。」
泣蜂 :「宮本先生がさっき来られて、退院は三が日って仰ってましたよ。」
林医師 :「それならそれでもいいけど。」憮然としながら言いました。
泣蜂 :「水分はどれくらいとったらいいんですか。」
林医師 :「水分は食事以外で1~2リットル。」
泣蜂 :「ゼリーとかプリンは食べてもいいですよね。」
林医師 :「ゼリー、プリンはいつ食べてもいい。」
この時、二人の医師が前後して来て、言う事が違うのをいぶかしく思いました。
19:00 栄養指導 ~消化のよい食材~
・12月28日
朝9時前 点滴針差し替え予定の為、抜いてからシャワーをする。
その後、針差し替え予定だったが、シャワー後に、林医師より点滴無にするとのこと。
宮本医師:「退院は年末目標で、昨夜来たけどいなかった。」
泣蜂 :「年明けのつもりでいるので、年明けにして下さい。」
・12月29日
朝食:パン食 久しぶりのまともな食事で胃が受け付けなかったのか、食後少し胃がむかつく。
・12月30日
昼 看護師より腸閉塞の事を教えてもらう
看護師 :「栄養分を吸収した後の食べかすが、小腸から送り込まれ、 それを大腸が排出しようとするが、動きが止まってしまう事によって、排出できないで、上から出ようとなる。 吐き気や嘔吐が続けば腸閉塞を疑う事。
来院するなら救急車はだめ、タクシーで。
年末年始は、病院は救急対応となるので、今いる人はなるべく退院してもらって、 救急で来る人のためにベッドを開けておく。
泣蜂さんなら自分の事は自分でしてくれるので、いてもらっても構わない。」
夜9:00宮本医師に眠っているところを起こされる。
泣蜂 :「寝込みを襲わないで下さい。」
いつもの部屋の入り口側ではなく、奥の窓側のベッドサイドに来ていたのでいぶかしく思った。
そもそも私は入院初日に寝ている時は起こさないでほしいとお願いしています。
宮本医師:「気持ちよさそうにぐっすり眠っていた、退院は1月4日で。 聞きたい事があれば明日朝来る。」
・12月31日
昨日まで粥だったのが、本日より成人食開始。
AM11:00頃 エレベーターホールにおいてある椅子に座って、携帯で通話中、背後からエレベーターから降りてきた宮本医師が、大きい声で
「泣蜂さんあとでね。」と声をかけてきました。
振り返ると、エレベーターに乗っていた他の人達が、宮本医師の声の大きさに全員注目していて、恥ずかしい思いをしました。
その後、訊きたい事があったので、病室で待つもいっこうに宮本医師は来られず、看護師さんに顛末を伝えました。
お昼ご飯の時、看護師さんが伝えてくれたのか、やっと来ました。
泣蜂 :「さっき大きい声でご機嫌さんでしたね。」
宮本医師:「挨拶は大きい声で、がモット-です。」
泣蜂 :「訊きたい事があるんですけど。」
宮本医師:「今から帰る。林先生来なかったの。」
泣蜂 :「じゃあ今度で良いです、いそがないから。」
さっきまでの上機嫌とは打って変わって、不機嫌な感じで、帰るところだというのもあって訊きづらく、 看護師さんにこの事を言うと、
「せっかく来てくれたんだから、訊けば良かったのに」と言われました。
この日の夕食は大晦日という事もあってか、いつもと違い、年越しそばに天ぷら、お浸し、パイナップル、一口サイズのお饅頭でした。
夜、看護師さんが来た時に訊いてみました。
「栄養指導でもらった表の適さない食品の中のものがあったけど大丈夫ですか」
看護師さん:「参考程度にして下さい、よく噛んで食べて下さい。」