子宮筋腫 再手術までの20年間
子宮筋腫開腹全摘手術、未婚女性のライフプランは?
第5章 神戸市立医療センター中央市民病院 調停から訴訟へ
~1回目の手術後の20年間~
全摘手術の2年前に生理が止まり、子宮筋腫が縮小、お腹がペシャンコに。(地裁で陳述書として出したものです)
【1回目の手術】
20代後半で内科医から、大きい病院へ行くように言われました。1ヶ月もたたずに入院、子宮筋腫核出術をしました。
大きい筋腫のみを取り、小さい筋腫が残りました。
手術時間も長くかかり、出血も輸血ぎりぎりまでありました。
当時、恋愛の経験も無く、婦人科なんて結婚して赤ちゃんが出来てから行くところだと思っていた私には相当つらいものでした。
実際入院すると、私ぐらいの年齢の人がかわいい赤ちゃんを抱っこしてにこにこ笑っていました。
その横で、私はワーワー泣いていました。
手術後は嘔吐が続き、入院期間が延びました。
当然のことながら自然分娩は出来なくなりました。
精神的にも、身体的にもつらいものでした。
【退院後】
当時は今と違って、寿退職が当たり前、あるいは妊娠してお腹が大きくなって、 マタニティーの制服を着て仕事を続けても、産む直前には辞めていく、 専業主婦が当たり前、そんな時代でした。女性に対する見方も厳しいものがありました。
「(結婚して)3年子なき嫁は去れ」
25歳過ぎて結婚していない、彼氏いない女性の事を何と言ったか、 「売れ残りのクリスマスケーキ」です。
結婚前の女性に何かあったら、「傷物」と言われていました。
「子供が子供を産んではいけない」そんな事を聞いたことがあります。
今こんな事を言ったら、たちまち炎上です。
私自身、結婚という事に関して崖っぷちの年齢であった上に、 病気、手術までしてしまい、崖の上から海へと突き落とされたような気持になっていました。
当時の医師からは、早く結婚して赤ちゃんを作って下さいと言われましたが、 退院後の私に待っていたのは心無い中傷の言葉でした。
「あの人もう結婚できないわね。」
「男の人ってお腹のケロイド嫌がるからね。」
お見合いしても断られました。
会社で、仕事一筋の同僚が私を見て、慌ててお見合い結婚をして、 会社を辞めていきました。
「いつ何がどうなるかわかりませんから。」と私に言い残して。
学生時代の友達は結婚、出産ラッシュ、そういった連絡は病気以後、 一切来なくなりました。
これらの言葉、出来事で私は傷つきました。今も私の心に深く残っています。
入院・手術したのが1月、本来なら1、2月は海外旅行の為に、 会社に長期休暇を申請していましたが、海外旅行に行くどころか、病院行きになってしまいました。
また、入院前の1年間、ある仕事をする為の勉強をしてきて、 いよいよ独り立ちというタイミングでしたが、それも体力不足になり、 叶いませんでした。
【1995年1月17日 阪神大震災】
入院したのが1年前の1月17日、翌年の1月17日は阪神大震災。自宅は半壊、9月には勤務先をリストラされました。
もう恋愛やお見合いどころではなくなりました。
当時の神戸は壊滅状態。
仕事をしたくても見つからず、アルバイトをしましたが、仕事の取り合いや、 足の引っ張り合いなどを経験しました。
給料の未払いもありました。
給料の支払いが遅れていたので、事務所に行って所長に訊いたところ、 一週間待ってほしいと言われました。
その言葉を信じて一週間後事務所に行くと、事務所は蛻の殻になっていました。
“信じたら”裏切られました。
30代半ばにして、初めて付き合った相手に、病気の事を告げると、
翌日携帯電話が着信拒否をされました。
良い人かなと思っていたら、そうではありませんでした。
恋愛と言えるかどうかもわかりませんが、恋愛はこれが最初で最後で、 あっけなく終わりました。
この後、当ても無く行ったデパートの屋上で、遊具で楽しそうに遊ぶ親子を見て、
泣いたのを覚えています。
"私はいつになったら、あんなふうに幸せになれるのだろう"と。
30代後半、自分でお腹を触るとしこりが大きくなっているのを感じた為、 N産婦人科にて漢方の煎じ薬を処方してもらいました。
子宮筋腫が大きくならないように、手術しないで済むように、閉経までもたせられるように。
【父が認知症を発症】
この頃から、父がおかしな行動をとるようになりました。所謂、まだらボケでした。
当時、世間ではリストラの嵐が吹き荒れていました。
40歳直前で前職の会社に入社。
大手だったので、定年まで頑張ろうと意欲に燃えていました。
しかし、父の症状はどんどんひどくなり、介護と夜中の徘徊に付き合い、睡眠不足と疲れでフラフラになりながら、仕事に行きました。
数年後、父が亡くなりました。
次に妹に癌が発覚しました。
発見された時はすでに症状が進んでいて、妹に残された時間を共に過ごす為に費やしました。
【2011年(平成23年)2月】
市販薬の命の母Aを一ヶ月かけて一瓶飲んだところ、翌月より生理が一年間止まりました。2012年(平成24年)1月頃 大きかったお腹がペチャンコになり、 見た目が良くなったので、喜んでいました。
2012年(平成24年)4月 止まっていた生理が始まり、それ以降お腹はどんどん大きくなりました。
ちょうどこのタイミングで、N産婦人科(N先生が僻地医療の為、閉院)から、 金のさじ漢方内科へ転医しました。
この時、漢方の煎じ薬の一部が出し忘れという医療事故が起こりました。
2012年(平成24年)9月 内科クリニックを受診。腹部エコーをしました。 この時のお腹の様子を約半年後にイラストで書いてもらいました。(写真)
これは平成24年9月の時点で、筋腫が胃の下方だったものが、 平成25年1月の時点で、再び腹部エコーをして、胃・膵臓近辺まで腫大していたという事を示しています。
つまり、生理が再開した頃にはもっと小さかったという事が言えるのではないでしょうか。

1年間生理が止まり、お腹がぺちゃんこに!(手術前に)アゴニスト療法をしていたら・・・
この頃の私の思いは、良いことが無いのは、私が悪いのだから我慢しよう、 現に仕事があって、住む家もあるし、幸せではないが、有難いことだ。
でも、どうしてこれでもかこれでもかと痛い目にあわされるのだろう。
これ以上痛い目にあうのは恐ろしい。
"次はどんな痛い目にあわされるのだろう、生きるのが怖い" (そして挙句の果てが、今回の手術でした。)
この頃、勤めていた会社で人事異動がありました。
旧知の男性社員が同じ部署に来られました。
独身で以前に会った時の若々しいイメージのままで。
女性としての気持ちが沸き起こりました。
私の周りでは、私と同じような年齢の人がバツイチ同士で社内恋愛を楽しんでいました。
そんなのを見て思いました、今から女性としての人生をやり直したいと。
今まで病気や大きなお腹、家族の事で恋愛に踏み込む事が出来ませんでした。
【私が2回目の手術を嫌がった理由】
1回目の手術そのものが大変でした。つらい思いをしました。退院後、心無い言葉で精神的に傷つきました。
職を失いました。夢は潰れました。
人の言葉を信じたら裏切られました。
恋愛相手から着信拒否を受けました。
手術後の20年間、私にとって良い事は一つもありませんでした。
そして2回目の手術後、私の身に再び同じことが起こりました。
手術そのものが、高度医療の現代にあって、1度目の時より、つらい大変なものでした。
入院前の宮本医師の言葉を信じたら、手術後すべて覆されました。
”信じたら”、裏切られました。
子宮喪失感で落ち込んでいる時に、宮本医師の数々の言葉で傷つきました。病院の電話交換での門前払い。
精神的に苦痛を受け、仕事が出来なくなり、失業。恋愛どころではなくなりました。
今回の入院・病気の事は、前の手術の時のように、人からとやかく言われたくないと思い、誰にも言っていませんでした。
それにもかかわらず宮本医師から心無い言葉、行為を受けました。
今回の手術前、私には夢がありました。
仕事を定年まで続けたい、家を建て直したい、恋愛や結婚もしたい。
しかしそれらの夢や希望は再び潰されました。
20年前の手術の時と再び同じことが起きました。
こじつけと言われるかもしれませんが、これが私にとっての事実です。
私は女性としての幸せを経験した事がありません。
恋愛の楽しさ、結婚の幸せ、妊娠の喜び、出産、子育て、自分の家族。
きらきらした思い出は何もありません。
この20年、普通なら幸せであろう時期に、これでもかという程つらい思いをしてきました。
【手術前と手術後】
手術前、勤めていた会社に好きな人がいました。女性としての人生を一からやり直したい、恋愛や結婚、あの年齢でも、 あの大きいお腹でも、赤ちゃんが欲しい、今の高度医療だから、 子宮をおいといてさえもらえたら、何とかならないだろうか、 例え結果が駄目だったとしても、やるだけの事をやったら納得もいく、そういう気持ちでこの病院にかかりました。
恥ずかしい話ですが、同年代の女性が当たり前のようにしてきた事を、 私はまださほど何もしていません、「救って下さい、助けて下さい」そんな気持ちでした。
そんな私が、「何が何でも手術して下さい、ましてや子宮とって下さい」など、どこでも言っていません。
未婚の女性が、全摘を拒否し、子宮温存希望を出すという事は産婦人科医ならその意味が分かっているはずです。
その希望を出させない為に、「ダメです。」と言い、子宮をおいとくことさえ出来ないような説明をしてきました。
その為、私は妊娠希望を出す事が出来ませんでした・・・。
40代で閉経前の私にとって、この病院での治療はラストチャンスでした。
それが助けてもらうどころか、子宮・卵巣を根こそぎとられ、お腹に大きい傷を残され、精神的にも傷つけられて、人生つぶされました。
手術して根こそぎとられてから、いろいろ言われても、患者は後戻りできません。
しかもこの治療しかなかった訳では無いのです。
さらに、婦人科医からケロイドの事を「もっと赤黒くなる。」の一言で女性としての人生を終わらされたら、こんな悲しい事はありません。
産婦人科医は女性の幸せを担う仕事です。
その宮本医師はネットで自分は幸せいっぱいだと書いていました。
私もそんな幸せを目指して神戸市立医療センター中央市民病院にかかりました。
さらに「何でも相談して下さ」いと書いています。
産科にかかっている人は私から見たら幸せいっぱいの人達です。
この人達の相談にはのって、私の相談にはのってもらえませんでした。
将来体を悪くして医師にお腹を診てもらう時、医師はどう思うでしょうか。
胃がんにでもなった時、腹腔鏡なんて考えてももらえません。
さらに癒着はひどくなているのではないでしょうか。
また同じような扱いをされるのかと思うと病院にも行きたくありません。
実際、産婦人科で治療を受けるにあたって中央市民病院でどういう治療を受けたのか事の顛末を話すと、嫌がられてしまいます。
心療内科でも卵巣を最初はおいておくと言われたのに、腐っていたから取られたと言うと、 「医療事故ですか、こちらでは診れません。他に行って下さい。」と言われました。
私はどこで治療を受けたらいいのでしょうか。
神戸市内の病院を一軒、一軒回らないといけないのでしょうか。